2015年9月27日日曜日

空は果てしなく青い







しっとりと濡れた下草を足裏に感じ
ゆっくりと醸し出される草木の吐息の中にラベンダーの爽やかさを感じ取る

雲一つない空は明けらんとしており
やるべきことは山積みながら
本当のところは何もすることがないような思いに囚われ
次第に濃さを増していく空を仰ぎ見つつ
焦燥の思いに駆られる。

太陽の日差しに変化を感じ、
まどろむ朝に時の流れを感じない地域の人々は、
年月をどう捉えていているのだろう。

ハリケーンが襲うこともあろうか。

そうなると、何の変化もない地域など、この世には存在しないのか。
ああ、般若心経の世界か。

色即是空、空即是色
Vanitas vanitatum et omnia vanitas.

空は果てしなく青い




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2015年9月24日木曜日

四人兄弟






この九月から北京大学に一年間の奨学金を得て北京語を学びに行っている長女バッタからメッセージが届く。

18歳未満なので、滞在許可証を申請する際、現地の後見人が必要であることが現地で手続きをする際に判明。双子の妹一家は北京語圏とは言えど、台湾。中国大陸広しと言えど、知り合いが一人もいないことに気が付き愕然とする。知り合いの知り合いを紹介してもらう。日本人女性で中国人の旦那と5歳のお子さんがいるとのこと。どうやらその方から無事身分証明書のコピーをいただけたらしい。その方にお礼のメールを書いたので、ちょっと見て欲しいと言う。

こんなに日本語の文章が上手に書けるのか、と正直感心してしまった。未だ会ったこともないのに、突然のお願いを快く引き受けてくださったことへの感謝の言葉が素直に綴ってある。毎日忙しくて、ホームシックになる時間もないと書いてある。その方のメールアドレスが写真付きなのか、可愛い男の子の写真を見て、ぜひ次回、お忙しい時などベビーシッターをするので声を掛けてくださいとある。「四人兄弟」の一番上であり、年下のいとこたちも多いので、子供達と遊ぶのは大好きです、と。

違和感を感じる。そうか。「兄弟」ではなく、「きょうだい」にしないとね、と思うが、いや、そんなことにではない。

ひっかかる。
そうだよ。馬鹿だな。なんで四人なの。三人じゃない。でも、そんなこと、間違うものなのかしら、と思った瞬間、閃く。

彼だ。
パパのところの、あの坊やを数に入れているのか。そりゃあ私の子ではないが、長女バッタにしたら、間違いなく弟。律儀さ、なんかではなく、本当に弟として思っているのだろう。痛みとも違う、表現しにくい何かが心を打つ。


無理しないでね。悲しいことや困ったことがあれば、何でもママに言ってね。空港で別れ際、彼女にそう言うと、「絶対そんなこと言わないよ。」と強気の言葉が返ってくる。辛くて泣いてもいいんだよ。人間、みんな辛い時もあるんだし、それが普通なんだよ、と言えば、「大丈夫。」と。そして、泣き言を言い始めたら、一人で頑張れなくなっちゃう、とつぶやき、にっこり笑って一人機上の人となる。

加油!
ママも未だ泣いていないよ。元気でね。一年後に会える日を楽しみにしているよ。







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2015年9月22日火曜日

我が家の天からの恵






毎年レインクロード、ミラベル、クエッチと天からの贈り物を授かる我が家の庭だが、今年は、どうもぱっとしない。それでもラズベリーはたっぷりと採れたし、優雅な朝食を彩ってくれてはいた。

ただ、ここ数年、せっかく採りたてのフレッシュな果物に恵まれながら、口にすると発疹が出てしまい、一生分の果物を食べてしまったからなのか、火を通さなければ食べられない体質になってしまっていた。それが、不思議なことに、スーパーで買った果物は平気なのに、である。我が家の庭の果物は、虫を寄りつけないような特殊な液でも出しているのだろうかと思ってしまう。

そして、その発疹に長女バッタも悩んでいると知った時の驚き。また、逆に、息子バッタと末娘バッタは全く発疹が出ないことが分かった時の驚き。

いずれにせよ、今年はその発疹に悩まされることなく、また、今回こそは大丈夫に違いないとフレッシュな果物を口にしようかとのハムレットの悩みに苦しむことなく、なんとなく物足りない夏が過ぎて行った。


9月に入り、庭の奥に真っ赤に染まる林檎の実を見つける。手に抱えられない程嬉々として収獲し、林檎タルトにしようと思いつく。薄いスライスをしながら、幾つか味見もする。林檎の木が実をつけるようになって三年目。去年は小さい実ながら、我が家の林檎かと思うと、感慨もひとしおで味わっていた。今年は随分立派な大きさになっている。瑞々しく、甘過ぎず、上品な味ににんまり。

そして、まさかのまさか、夜中に発疹で目覚める。
林檎?まさか?
トロピカルフルーツなら分からなくもないが、何故、健康に最高の果物の代名詞のような林檎を食べて発疹が出るのか。林檎なら、幼い時から齧っていたではないか。大好きな果物の一つ。
ひょっとして、本当に我が家の庭で収獲された果物だからなのだろうか。それ程新鮮なものは口にしてはいけない何かがあるのか。しっかり水洗いすれば良いのか。

何とも信じ難いが、我が身が現実を直視しろと主張している。
もぎ立てのフルーツを口にすることはハシタナイ行為なのか。こうもひ弱になったのか。

それよりも、人間はかくも学習しないものなのか。赤い発疹の痒みを堪えながら項垂れる。


そのうち、胡桃やヘーゼルナッツの収穫が始まる。
今度こそは口にしまい。

無農薬、一切手を掛けていない天からの恵ながら、何が問題なのだろう。
うらめしくも不思議な思いで、真っ赤な林檎を見つめる。





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2015年9月16日水曜日

蜜蜂の人生









あんまり忙し過ぎちゃって、
自分がどこの花で蜜を吸っているのか、分からなくちゃっているのかもしれない。

気が付いたら仲間たちとはぐれて、全然知らない場所にいるのかもしれない。

本能に任せて、一心不乱に、最高の甘く濃厚な蜜を吸い続けている時に、鳥に狙われちゃうかもしれない。

ま、それも人生か。
え?大きなお世話って?







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2015年9月13日日曜日

真っ赤なポンポンダリア








「幸せだわ。」
うっとりとした様子で彼女は独り言つ。夏の昼間の日差しに包まれ、パラソルの緑の陰で、ピンクの薔薇が咲き誇る中、その穏やかな目元から今にも涙がにじみ出んばかり。

「でもね、実は素直に幸せを感じられないの。」目元の涙を説明するかのように言葉が続く。「日本にいる両親を思ってしまうの。二人は、これまでも、そしてこれからも、きっとここには来れない。だから、私一人で幸せを味わってしまって申し訳ないって。」

想像もしなかった言葉に返事ができないでしまっていた。
私が19の時に亡くなった父にバッタ達を会わせたかったな、と思ったり、この場に母がいたらな、と思ったことはあるが、それは飽くまで自己中心的発想。彼女の言葉は親孝行というより、むしろ慈悲の心からきているのであろうか。

バイクの音で目覚めるバンコク。通りに立ち込める香辛料と香草の香り。もう遠い記憶でしかないが、容赦ない暑さと、あくまで青い空、怪しげなトクトク。アジアの地でもっともエキサイティングで、機会あればぜひ行きたい地。そこに昨年夫婦で小旅行をしたと言う。ところが、そこでの貧富の差を直に感じてしまい、心から楽しめなかった彼女の様子を、彼女のことを高校の頃から知っている旦那が、愛する人について誇らしげに且つ労りながら、控えめに静かな声で伝える。

深淵を覗いてしまった者は、覗く前の自分ではありえない。見知ってしまった者としての責任を負う。それでも、である。悩み多き自分の人生でさえ漸く生きているのに、他人様の事情までをも背負ってしまったら、潰されてしまうではないか。観音様ではない限り。

すると、優し気な目元を一層細めて、「悩みねえ。」「悩みなんてないよね。」そう旦那に微笑む。すると、やっぱり同じように優しい笑顔で「そうだね。悩みはないよね。」と旦那が答える。

そうかと思うと無邪気な子供の様に、道端の草花に歓喜し、ゆっくり立ち止まって挨拶をする。まるで真っ赤なポンポンダリア。華麗でいて気品があり、潔くて愛らしい。

今年の夫婦水入らずの小旅行はフランス。その貴重な一日をこうしてモネの庭のあるGivernyで私と過ごしながら、別れ際に彼女が尋ねる。どうして、彼らの観光に付き合ってくれたのか、と。

友達だから。
その単純な答えを飲み込んでしまう。尋ねてきたということは、この答えを予想していまいと、変に遠慮してしまう。

ホスピタリティについての思い出話をして答えとしてしまう。ああ、こんなことを言いたいのではないのにな、と思いながら。

それに、Givernyに行くことを強く勧めたのは、この私なのだから。

Givernyへの思い入れは強い。
数年も前になる平日の午後、仕事を何とか切り上げて、地図を片手に隣でナビをしてもらい、光と影がまばゆい空間を初めて訪れる。一時の解放感で有頂天になりながら無花果のシャーベットを味わったことが忘れられない。その後、ゆっくりと柳の枝が風にしなる音を聞き、うっそうとした緑の藤の枝がくっきりと切り取る空間を発見し、蓮池に映る空の色に心動かされる機会を持つ。それから長女バッタと母を連れ、オーストラリアのホストファミリーを連れ、台湾の妹一家を連れ、と、何度も訪れている。

そうして、曖昧な追憶は、確固たる確信となる。もうずいぶん前に、バッタ達の父親と一緒に訪れたことがあった、と。訪れるたびに、その幹に触れる、見上げるばかりの巨木である柳に伝えられたように思う。

友人たちがパリに遊びにくると、決まってモネの庭を訪れることを勧める。友人たちに楽しんでもらいたいとの純粋な気持ちが当然あるが、一緒に訪れることでの私の楽しみもある。


真っ赤なポンポンダリアの君よ。
またきっとフランスに訪れてきてくれることを待っているよ。
広隆寺の弥勒菩薩のように慈悲深く、思慮深いながらも、ポンポンダリアの様に軽快で明るく輝いている君に、これからも幸多からんことを。









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